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    私は母が大好きだった。
    だから、葛藤も酷く辛かった。

    ピアノを始めた頃は、厳しい母ではなかった。

    幼稚園に、東京芸大卒の先生が教えにいらっしゃる事になり、始めはグループで始まった。
    当時、幼稚園にはピアノがなく、足踏みオルガンをとても上手に弾いたそうだ。

    私は甘ったれで引っ込み思案、人見知り。

    グループレッスンで母達は見学、母が妹の用事で遅かった時などは、泣きべそをかいて下駄箱の前で待っていたのを覚えている。
    母と一緒でないと、人の輪に入って行けなかったのだ。

    幼稚園時代、お釈迦様の花祭りと、躍りが上手だと選ばれて踊った事以外、他の事は何も覚えていない早生まれの目覚めていない子供だ。
    「ママ、ママ」と、抱っこされたままいたい子だったが、歌やオルガンは大好きだった。

    小学生になって、先生のご主人様(NHK交響楽団コントラバス奏者)が、ライプツィヒに留学なさる事になり、お別れしなければならなくなった。

    私は先生が大好きだったので、横浜の港から送る日、どしゃ降りの雨の中、船が汽笛と共に手からテープが離れていくと、「先生、行かないでー!戻ってきてー!」と叫んだ。悲しかった。
    船の上から、「さなえちゃん、芸大に行くのよ!」と仰ったが、その後は声が汽笛と混ざって聞こえなかった。

    二年後、一度帰国されたが、ご主人様はオランダのロッテルダム交響楽団に転職、永住権をとって再び行かれてしまった。

    その時に、正式に渡欧の間見て頂いた芸大卒の先生に変わる事になり、苦しみが始まったのだ。
    母は、覚悟を決めたのだろう、厳しくなった。

    小学校4年の時、第二子出産で帰国された先生にピアノを聞いて頂き、弾き終わると、「芸大に行きなさい。二年間、日本語で取れる授業と資格は全部取りなさい。
    その後はヨーロッパに来なさい。待ってるから。」と仰り、私は「はい。」と答えた。
    「あなたの音が出来たわね。そのあなたの音を大切にしなさい。大事な事よ。」と仰って下さったのは、嬉しかった。

    母も嬉しかったらしく、それから厳しさは益々アップグレード!恐い母に一変したのだ。